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流れをつかむ、ロシア史入門NO.3 (クイズ式のやさしい解説付き) ~公国の分裂時代~

当記事を覗いていただき、ありがとうございます。

 

本日はロシア史のクイズシリーズNO.2です。ロシアの歴史は実用性が全くないので、マニアックな知識ではなく、あくまでも歴史の流れを重視するよう心がけます。そのため、問題の順番は歴史の流れを意識し、全問に解説を付けております。

 

ロシア史を全く知らない方でも、上から順番に読むだけで流れが理解できるように工夫してあります。

 

ロシア史の知識がほぼ皆無の方は、解説を読んで流れを理解されてから、再度クイズに挑戦すると知識は定着しやすいです。

 

また、巻末に年号も付録していますので、参考にしてみてください。

 

(8). キエフ大公国の分領制時代に頭角を現した公国の一つで、特に商業の発達が顕著であった地域はどこか。

 

(A). ノヴゴロド

(B). スーズダリ

(C). モスクワ

(D). サンクト・ペテルブルグ

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(解答・解説編)

(A). が正解。

『原初年代記』の伝説によると、862年にノルマン人(ルーシ)の実力者リューリクがスラヴ人世界に入って征服し、ノヴゴロドでロシア初の国家を建設しました(ノヴゴロド国)。

 

しかし、ロシア史ではこの後、キエフが政治の中核都市として栄えていきました。ノヴゴロド自身は、バルト海と黒海を結ぶ商業ルートという地の利を活かし、商業都市として発達しました。

 

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(商業都市ノヴゴロドの図: СВ-Астурより)

中世ドイツで発達した商業都市の同盟(ハンザ同盟)では、海外進出の一環として他国に在外商館を複数保有していましたが、ノヴゴロドにも同時代にこの商館が存在し、経済活動を営む商人たちの賑わいぶりを想像することができます。

 

交易では、毛皮品などを輸出し、ワインや金属製品などを輸入してロシア各地に転売していました。

 

こうした背景から、ノブゴロドでは大商人や貴族らが公国の政治に強い発言力を有していました。一応は「公」を頂とする形式を採っていたものの、「民会」と呼ばれる民主主義的な議会があり、「公」よりも決定権が強く、公職人の選出や外交などを決定していました。

 

選択肢D.のサンクトペテルブルグは、ロシアの西欧化政策に邁進するピョートル大帝が、バルト海進出と西欧文明浸透の窓口として1700年代初頭に建設、首都を置いた都市です。

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(9). キエフ分領制時代に北東ルーシで多くの都市を建設し、モスクワの建設者としても知られる人物は誰か。

 

(A). ユーリー・ドルゴルーキー

(B). エカチェリーナ2世

(C). ミハイル・ロモノフ

(D). アレクサンドル・ネフスキー

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(解答・解説編)

(A). が正解。

 

中心公国キエフの求心力低下に伴うキエフ分領制時代には、ノヴゴロドの他にウラジーミル(およびスーズダリ)公国やリャザン公国などが相次いで独立志向を強めていきました。

 

ノヴゴロドでは商業が発達し、大商人らが公国内で力を強めていったのは上述の通りですが、ウラジーミル・スズダリ公国では、「公」の権力が強かったとされています。

 

ユーリー・ドルゴルーキー(Юрий Долгорукий)は、北東ルーシのスーズダリの「公」でしたが、遠方キエフの政治に干渉して最後はこれを占領、キエフ大公になりました。(このため手長公 Долгорукий というあだ名がつけられています。)

 

記録によると、1147年にドルゴルーキーは現在のモスクワで他地域の同盟者の「公」をもてなし、その数年後にモスクワを堀と壁で囲ったことから、モスクワの開基としてみなされるようになりました。

 

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(モスクワのユーリー・ドルゴルーキー像: rusidea.orgより)

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(10). キエフ衰退により、代わって次に「大公」が現れた地域はどこか。

 

(A). アストラハン

(B). ノヴゴロド

(C). モスクワ

(D). ウラジーミル

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(解答・解説編)

(D). が正解。

 

キエフは、①ドニエプル川周辺の南北交易の衰退、②異民族ポロヴェツによる圧迫、③諸公同士の内紛、などが原因となって衰微していき、人々は北東地方に移動していきました。

 

こうした流れの中で、ウラジーミルやスーズダリは独立的な公国として発展していき、ユーリー・ドルゴルーキーの子のフセヴォロド大巣公(子宝に恵まれたことからこう呼ばれる)は、諸公からウラジーミル大公として認識され、権力を握りました。

 

フセヴォロド大巣公は、ロシアの専制君主制の先駆けと言われており、前問で既述のように、商人が力を握ったノヴゴロドとは異なり、ウラジーミル・スーズダリ大公国で強権的な統治をおこないました。

 

つまり、キエフ大公の地位はその権威を次第に堕としていき、代わってウラジーミル大公が台頭するようになっていきました。

 

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(フセヴォロド大巣公: Как Просто!より)

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(年号: 橙色が当記事の範囲の時代)

 

862年: リューリクらがノヴゴロドを侵略。スラヴ圏におけるリューリク朝の誕生。

882年: オレーグとイーゴリがキエフを占領。キエフ公国建国。

988年: ウラジーミルのキリスト教受容。「ルーシの洗礼」。

11世紀: キエフ大公の権威低下と公国分裂。ノヴゴロドが商業で繁栄。

1147年より: ユーリー・ドルゴルーキーがモスクワを都市化する。

1176年: フセヴォロド大巣公、ウラジーミル大公に即位。

 

 

 

以上です、ありがとうございましたm(__)m