現役ロシア語講師によるロシア語勉強法

~ロシア語ガチ勢のためのブログ~

流れをつかむ、ロシア史入門NO.2 (クイズ式のやさしい解説付き)~キエフ公国編~

 

当記事を覗いていただき、ありがとうございます。

 

本日はロシア史のクイズシリーズNO.2です。ロシアの歴史は実用性が全くないので、マニアックな知識ではなく、あくまでも歴史の流れを重視するよう心がけます。そのため、問題の順番は歴史の流れを意識し、全問に解説を付けております。

 

ロシア史を全く知らない方でも、上から順番に読むだけで流れが理解できるように工夫してあります。

 

ロシア史の知識がほぼ皆無の方は、解説を読んで流れを理解されてから、再度クイズに挑戦すると知識は定着しやすいです。

 

また、巻末に年号も付録していますので、参考にしてみてください。

 

 

(5). キエフ公国の大公イーゴリの息子で、公国の領土拡大に努めた人物は誰か?

 

(A). オレーグ

(B). スヴャトスラフ

(C). ウラジーミル

(D). ヤロスラフ

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(解答・解説編)

(B). が正解。

 

スヴャトスラフ(Свѧтославъ Игоревичь)は、王朝初代リューリクの孫で、都をキエフに遷都したイーゴリの息子と目される人物です。

 

初代: リューリク (公在位期間:862年~882年)

2代目: オレーグ (882~900年代初期)

3代目: イーゴリ (900年代初期~945)

4代目: スヴャトスラフ (945~972)

 

リューリクとオレーグの血縁関係は分かっていませんが、オレーグはリューリクの子イーゴリを擁して、都をノヴゴロドからキエフに遷都(882年)しました。

 

イーゴリが徴税の巡回中に殺害され、その子のスヴャトスラフが大公に就くと、彼は公国の領土拡大に励みました。

 

好戦的な性格で、内政よりも領土拡大に野心を燃やし、ユダヤ民族のハザール人を滅ぼして公国の支配権をヴォルガ川流域まで延ばしました。

 

バルカン半島遠征やブルガリア侵略も試み、当時の黒海周辺の覇権を握っていた東ローマ帝国とも交戦したとされています。

 

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(スヴャトスラフ: russian-history.infoより)

 

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(6). キエフ公国の大公ウラジーミルの治世で起きた歴史的事実は次のうちどれか?

 

(A). 東ローマ帝国を征服した

(B). キリスト教を国教化した

(C). 公位名を「ツァーリ」に変更した

(D). 農奴制を確立した。

 

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(解答・解説編)

(B). が正解。

 

スヴャトスラフの子でキエフ大公の地位を受け継いだウラジーミルは、988年にキリスト教を国教化しました。これをルーシの洗礼と言います。

 

 

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(キリスト教の洗礼を受けるウラジーミル大公。絵は19世紀頃のもの: Wikipediaより)

 

歴史的な背景としては、当時のキエフ公国にとって、黒海を隔てた大国の東ローマ帝国(ビザンツ帝国)との関係は外交政策上の大きな課題となっていました。事実、先代のイーゴリやスヴャトスラフらはビザンツ帝国と交易に関する条約を結んでいました。

 

一方、東ローマ帝国側は、新興勢力であるキエフ・ルーシ(公国)をキリスト教化(東方正教会化)させることが国益にかなうと判断したのでしょう。

 

当時黒海周辺にはブルガール人を中心とする遊牧民族の勢力が帝国を脅かしていたため、ルーシを味方に付けることが得策であったと思われます。実際にウラジーミルに軍の救援を要請しています。

 

キエフ・ルーシの東方正教の受容は、複数の影響をもたらしました。まずは、正教は国家統一に向けたイデオロギー的基盤となりました。

 

また、この時代、スラヴ人のための文字が外国から派遣されてきた宣教師らによって既に開発されていましたが、キエフ公国がキリスト教を正式に受容すると、聖書などの書物が大量に流れ込んできました。こうしたことを背景にキリル文字の普及が進み、今日のロシア語の礎となりました。

 

この他、ビザンツ様式の建築技術が伝わるなどしました。

 

ウラジーミルが国教化する以前のルーシを異教時代 (Язычество древних славян)といいます。スラヴ人にはもともと土着の自然の神々を崇める信仰がありました。

 

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(7). キエフ・ルーシは11世紀頃に分裂の流れをたどっていくが、その原因として妥当ではないものはどれか。

 

(A). 諸公間に内紛が頻発した

(B). ドニエプル川流域の交易が凋落した

(C). 南方異民族から圧迫された

(D). キエフ大公がビザンツ帝国に売国行為を働いた

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(解答・解説編)

(D). が正解。

 

ヤロスラフの治世

キエフ・ルーシは大公ウラジーミル(または聖公ともいう)とその子のヤロスラフの時代に爛熟期を迎えます。

 

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(ヤロスラフ賢公(在位:1019~1054) Ярослав Мудрый: 24СМИより)

 

ヤロスラフは聖書の翻訳や教会・修道院の建造、法典の制定などに尽力しました。

 

一方で、キエフ・ルーシを脅かしていた黒海北岸のペチェネグ人に対して決定的な勝利を収めました。

 

しかしながら、ヤロスラフ公が死去すると、大公国は次第に分裂の運命をたどっていきます。

 

南方民族襲来の脅威

上記ペチェネグ人がヤロスラフによって弱体化させられると、そのとどめを刺したポロヴェツ人(половцы)が同地域で覇権を握るようになり、以降はキエフ・ルーシを脅かしていきます(選択肢C)。

 

 

諸公同士の紛争

もともとキエフ・ルーシは、「公国」と呼ばれる一つひとつの小さな地域が統合してできた国でした。そして、その中で一番権威の高い都市がキエフであり、その公がルーシ全体のトップ(大公)として君臨していました。

 

ですが、大公位の継承方式は複雑で曖昧であり、ヤロスラフ以降は、基本的には実力で大公が決まっていくという方向に流れていきました。

 

必然的に諸公間の争いは激化し、各公は自分の領地内の運営に力を入れるなどして、独立分散の気運が高まっていきました(選択肢B)。

 

ドニエプル川交易の衰退

 ドニエプル川は、黒海に注ぐ大河です。黒海周辺にあったビザンツ帝国やハザール王国との交易を行うにあたってドニエプルは生命線ともいうべき川でした。キエフはまさにこの川の流域に繁栄した都市でした。

 

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 (地図中央の川がドニエプル川: googleマップより)

 

しかし、11世紀当時の国際情勢として、カトリック世界から派遣されてきたイェルサレム奪回を目指す十字軍が地中海に出現し始めると、貿易は地中海に集中するようになりました。

 

必然的にドニエプル川流域は徐々にそのお株を奪われる形となり、キエフの商業的な重要度は低くなってしまいました。

 

 

上記のような要因から、キエフ・ルーシは分裂の方向へと進むようになりました。衰退していくキエフに代わって、ウラジーミルノブゴロドなどといった都市が独立の公国として発達していきました。

 

これを分領制の時代 (Распад Киевской Руси)といいます。

 

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(年号: 橙色が当記事の範囲の時代)

 

862年: リューリクらがノヴゴロドを侵略。スラヴ圏におけるリューリク朝の誕生。

882年: オレーグとイーゴリがキエフを占領。キエフ公国建国

945年: スヴャトスラフ治世の開始。領土が拡大し繁栄する。

988年: ウラジーミルのキリスト教受容。「ルーシの洗礼」。

1019年: ヤロスラフ賢公の治世開始。

11~13世紀初頭: 分領制の時代。

 

以上です、ありがとうございましたm(__)m