当記事を覗いていただき、ありがとうございます。
中島です。
ロシア史のクイズシリーズを新設しようと始めました。ロシアの歴史は実用性が全くないので、マニアックな知識ではなく、あくまでも歴史の流れを重視するよう心がけます。そのため、問題の順番は歴史の流れを意識し、全問に解説を付けます。
ロシア史を全く知らない方でも、上から順番に読むだけで流れを理解できるように工夫しております。
ロシア史の知識がほぼ皆無の方は、解説を読んで流れを理解されてから、再度クイズに挑戦すると知識は定着しやすいです。
●古代のスラブ人の活動
(1). スラヴ諸種族が歴史に登場し、各地で政治単位を形成していたのは何世紀あたりか。
(A). 前1~2世紀頃
(B). 5~6世紀頃
(C). 9~10世紀頃
(D). 14~15世紀頃
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(解答・解説編)
(B). が正解。
5~6世紀頃、既にスラブ諸民族が各地で政治組織を形成していたことが分かっています。ロシア人やウクライナ人の祖先である東スラブ諸種族も同様です。
この頃の周辺情勢として、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)が隆盛を極めていたことが挙げられます。後に、この東ローマ帝国は地政学的な理由から、文化面でも外交面でもロシア史に非常に深く関係してきます。
(6世紀ごろの情勢: ヘブライ語 ve フォークダンスより)
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(2). ロシア最古の年代記である( )から推察されるに、東スラブ人はスカンジナビア半島に使者を派遣し、自分たちを統治してもらうよう依頼した。
(A). イーゴリ軍記
(B). 過ぎし年月の物語
(C). オストロミール福音書
(D). ルースカヤ・プラウダ
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(解答・解説編)
(B). が正解。
『過ぎし年月の物語』(Повесть временных лет)は、『ロシア原初年代記』とも呼ばれます。
書物の一部から推測されるに、当時ロシアの諸種族は争いに明け暮れて秩序がなかったため、スカンジナビア半島(今のスウェーデン辺り)に使者を送り、彼らを統治してもらうよう依頼しました(862年)。
『過ぎし年月の物語』は伝説が多く独特な表現を多用していますが、当時の周辺情勢とすり合わせると、使者を派遣した先はスカンジナビア半島だと推測されています。
(『過ぎし年月の物語』の写本: Тайны историиより)
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(3). 『過ぎし年月の物語』によると、使者の依頼に応じて( )らがロシアに南下してきて周辺を平定したという。
(A). リューリク
(B). ピョートル大帝
(C). ニコライ2世
(D). イワン1世
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(解答・解説編)
(A). が正解。
伝説によると、リューリク(Рюрик)は2人の弟と共にスカンジナビア地方から南下してきたノルマン人であり、ノブゴロド国という国をロシアに初めて建設し、東スラブ種族を平定し始めたとされています(862年頃)。
(ラドガ湖に到着するリューリク兄弟のイメージ: Wikipediaより)
ノヴゴロド国はドニエプル川を利用して黒海付近で東ローマ帝国らと交易を行い、毛皮やスラヴ人の奴隷などを輸出して栄えたとされています。
以後、リューリクの末裔が王座に就くなどして大きな権力を握ったため、リューリク王朝(~16世紀)と呼ばれます。
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リューリク朝の発展
(4). リューリクの死後、一族らは南下し、ドニエプル川中流域に( )を建国した。
(A). ガーリチ公国
(B). キエフ公国
(C). モスクワ公国
(D). ウラジーミル公国
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(解答・解説編)
(B). が正解。
ロシアの北方からスラヴ世界に入ったノルマン(スウェーデン)人らはルーシと呼ばれ、初めにノヴゴロド国を建国(862年)しました。そこで現地のスラヴ人と混血し、現在のロシア民族の基礎となりました。
リューリクの死後、一族のオレーグがリューリクの息子であるイーゴリを擁してノヴゴロドを南下、ドニエプル川中流域のキエフを占領してキエフ公国(Киевское княжество)を建国しました(882年)。
キエフ公国はキエフ・ルーシとも呼ばれ、以後ルーシの世界は分裂・解体するまで、しばらくキエフが政治の中心地となりました。
(栄えた時期のキエフ・ルーシ: Wikipediaより)