(Стихи.руより転載)
当記事を覗いていただき、ありがとうございます。
中島です。
前回は、『カラマーゾフの兄弟』を“信仰”というテーマに絞って考え、ゾシマの死は登場人物らそれぞれの信仰に対する姿勢を映す鏡である、という趣旨の私見を述べました。
今回は、当小説を通して、嘘をつきながら生きていくということを考えてみたいと思います。数人の代表的な登場人物を例に挙げていきますが、今日はカラマーゾフ家の次男イワンに焦点を当てていきたいと思います。
次男イワン・カラマーゾフ
次男イワンは秀才で、冷静な人物として描かれています。粗暴で自らの感情の赴くままに生きている長男ドミートリとは全く対照的な青年であり、物事を常に深く思慮する慎重な人間です。
イワンとドミートリの性格の違いは、父親に対する態度に端的に現れています。二人とも、父フョードルが憎々しくて殺してしまいたいという思いでは一致しているのですが、ドミートリは激情してフョードルを殴打するという物理的な攻撃を実際に加えているのに対し、イワンはフョードルとは身近に生活しているものの、自分の素顔を隠し続け、心の奥底では「こんな父親は早く死んでもらいたい」と陰湿なほどに願っているのです。
このイワンは「国家と教会」に関するスケールの大きい考察を論文で発表し、キリスト教の神の存在やその教えと、実際の人間社会との乖離(例えば、無垢な子供たちが迫害されている残忍な現実)を訴えています。
しかしながら、イワンが日頃から現実の生活で思い浮かべている本音とは、身近にいる父フョードルが憎いということであり、「国家と教会」論というような遠くの世界の崇高な理想を実際に願い求めているわけではありません。
イワンとは、他人に対して心を閉ざしており、本性を晒すようなことはしない内気な人間であると同時に、自分自身の正体をそのまま受け止めることができない人間です。
このことは、エカチェリーナが自分に対して恋心を抱いていることを知っておきながら、それを正面から受け止めもせず、またあからさまに逃げようともせずという中途半端な行動を起こしたり、また、父親の殺害は、自分の思想に感化された人物の犯行によってなされたものという現実を突き付けられた時、精神的な大打撃を受け、どうしてもそれを受け入れることができなかった、ということからわかります。
幼児期に自分を育児放棄した父親に対する嫌悪感と抹殺したいというストレートな本心が、直に暴力を行使する兄とは違って、論文発表というより高度な次元に昇華していると考えられます。彼は敵視する相手の焦点をぼかしているだけで、上品な言葉を使いながら、実は父親への憎しみを論文にぶつけているだけにすぎません。
このイワンの嘘を即座に見抜いたのはゾシマでした。ゾシマは教会でイワンの論文を聞き終えた後、彼のことを「とても不幸です」と言い放ちました。イワンに神への信仰がないことをゾシマは知っていましたが、同時に彼のおぞましい本心が論文に投影されている様も見破っていたのかもしれません。
いかがでしたでしょうか。
このように『カラマーゾフの兄弟』には、自分の行動を正当化したり、自分に嘘をつきながら生きていたりする人物が複数登場しています。次回以降は、他の人物にフォーカスしたいと思います。